柏市と布施弁天周辺の歴史

1.柏市と布施村、根戸村

柏市はかって下総(しもうさ)と呼ばれた千葉県の北西部(東葛地区)に位置し、地形は概ね平坦で関東ローム層といわれる赤茶色の細かい火山灰土に覆われ耕作に適するため、古くから人が居住し市内各地に縄文・弥生時代の住居跡や環濠集落跡、古墳などがあり、土器、青銅器、埴輪が多く出土している。平安時代には、平将門の乱後この地は将門の叔父である平良文の領地となり、その子孫が代々受け継いでいた。

文治元年(1185)に鎌倉幕府を樹立した源頼朝は功があった千葉常胤(つねたね)を下総の守護に任じ、二男の師常(もろつね)が相馬氏を名乗って茨城県南部に及ぶ一帯を支配しその勢力は室町時代まで続いたが、師常の曾孫胤久(たねひさ)は布施氏を名乗って布施城を築いた。(布施城址は現在公営斎場になっており、記念碑のみが残っている)

安土桃山時代から戦国時代にかけて、この地は北条氏と配下高城(たかぎ)氏、そして秀吉の支配を経て、徳川幕府の重臣本多正重が治めるところとなった。

柏市の北東端にある布施村は、利根川をはさんで常陸(ひたち)(茨城県東北部)に面しており、下総から常陸へ至る官道の要所として平安時代初期に布施屋(旅人の宿泊と医療のための官営施設)が設けられ、村名になったといわれている。その南にあった根戸村は、手賀沼を渡って布施へ出る古代官道の途中にあり、平安末期に坂東平氏の一族千葉常重が大治5年(1130)この地に築城して、胤久(たねひさ)の兄胤光(たねみつ)が治め根戸氏を名乗った。(北柏駅近くに根戸城址がある)

徳川時代には水戸街道が整備され、小金-柏-根戸-我孫子と通じる街道沿いの要衝として幕府の天領となり、布施村に対抗する規模と誇りを持っていた。

明治になり両村が合併する際に新地名について争いが生じ、人口が多い布施の字を変えて富む勢と書き、呼び方を「ふせ村」とした。柏と合併の際、布施(ふせ)布瀬(ふぜ)とまぎらわしいということで「とみせ」と読ませることとなった。合併前は富勢村布施(ふせむらふせ)だった。布施の古谷地区には成・成島姓が多いですが、そのルーツをたどると、下の『・・』以下の記事は布施初の代議士・成嶋(ぎ)一郎氏のお孫さんにあたる成京子さんの「戦前・戦中・戦後の体験談」の富勢地域ふるさと協議会への投稿文から掲載したものである。(出典「成嶋京子さんの体験談:富勢地域ふるさと協議会への投稿」より)

『南北朝時代(1300年代)戦いに敗れた京都の公家出身の成嶋と名乗る人が自分の領地であった上州館林(現在の群馬県太田市尾島町出身らしい。館林市には成島町も存在する)よりもっと温暖な平地を求めて視察に出た。たまたま布施の地が気に入り、家来として連れてきた平野(現古谷)氏と共にこの地に居をかまえた。以来、成嶋家は明治の新政府ができるまで名字帯刀を許され、近隣38ヶ村の名主を務めた。富勢は水戸街道の裏街道として人や荷物の往来が多かった。また、布施弁天が出来てから、江戸からの参拝人も多くなり、寺山坂下に旅館(橋本旅館など)や料理屋ができた。利根遊水地(旧和田沼)にはうなぎ・鯉・鮒等がいつでもとれた。

(尚、橋本旅館の跡は、現在YADOYAカフェとして営業中)

太平洋戦争の頃は、首都防衛の高射砲連隊や歩兵部隊の基地ができ、また陸軍病院(現在の市立柏病院)も設置されて、「軍都富勢」とも呼ばれていた。』

2.水戸街道と筑波街道(現在:布施弁天通り)、南龍寺

水戸街道は現在では国道6号の愛称になっているが、奈良時代以前からある五街道に準ずる重要な街道で大名の往来や物資輸送など人の通行が多く、江戸千住宿から水戸までを結ぶが、北柏駅北口前では旧道がほぼ東西にのびている。

常夜灯 道標

筑波街道(現在:布施弁天通り)は水戸街道から分れて北上し、根戸村、布施村を通り布施弁天や布施河岸に至る古い街道で、かつては常陸への脇往還として結城・谷田部・水海道など諸大名の参勤交代の行列や、テキスト ボックス: 常夜灯 道標江戸からの布施弁天参詣の人々で大いに賑わった。時代の変遷により、現在では春にあけぼの山公園で開催される「桜まつり」や「チュリップフェスティバル」のときに沢山の車が押し寄せて大渋滞するとき以外は、静かな田舎道となっている。

しかし、途中の分岐点にある追分蕎麦屋の前には文化7年(1810)に建てられ「筑波街道」と刻まれた高さ2メートルほどの常夜灯がどっしりと立ち、その横に「右是より婦せ弁天江のみち」と刻まれた貞享4年(1687)建立の道標もあり、また街道途中の富勢小学校(柏市で2番目に古く明治7年(1874)に開校)の校門脇には江戸時代の庚申塔などが立ち並んで、沢山の旅人が往来した昔がしのばれる。(注:尚、この庚申塔は今は他に移設されている)

その先の竹林山文殊院南龍寺(浄土宗)は元和元年(1615)に尊誉 雲哲(そんよ うんてつ)上人が開山し、山門額は大本山増上寺大僧正廊源上人の筆によるもので、門前に六地蔵が佇む。

江戸末期には各地で寺子屋が開かれたが、当地でも明治6年に当寺を仮校舎として「天真学校」が設けられ、上記の富勢小学校の前身となった。

南龍寺は新四国相馬霊場第26番札です。七里ケ渡の渡船悲劇の法事が営まれた寺です。

渡船悲劇とは享保4年(1719)3月25日に、七里ヶ渡の渡船が横転し、乗船者33名の内、20名が水死したという記録がある。この事件の1ヶ月後の4月25日に布施村の4つのお寺のお坊さんが全員集まり、南龍寺で犠牲者のご冥福を祈る法事が営まれた。

更に、土谷津(つちやつ)須賀本願寺があったとされる証拠に「板碑(いたび)」がこの南龍寺に保管されている。須賀本願寺は現在の取手市青柳にある「青柳本願寺」に移ったとされている。

「青柳本願寺」には、本多作左衛門重次の有名な手紙一筆啓上 火の用心 お仙なかすな 馬肥せ』の碑がある。

南龍寺のこの付近から街道の両側に広い敷地と大きな屋敷を構える古くからの農家が連なるが、表札を見ると昔から続く坂巻、後藤、成嶋・成島、長妻姓が多い。これらの住人は、最近まで布施弁天の門前町時代の茶屋、豆腐屋、足袋屋、下駄屋、大工などの屋号や与兵衛、藤左衛門などの通称で呼び合っていたようで、今もこの呼称を刻んだ石碑を門の脇に誇らしげに建てている家が多い。

荒屋敷、中城前、寺山など昔からの地名のバス停を過ぎ、緩やかな坂を下ると右側に布施弁天が見えてくるが、その手前左側には不動堂、大師堂、大日堂、薬師堂がまとまって並んでおり、奥には数十の庚申塔やその祭神の青面金剛(しょうめんこんごう)などの石塔が列座している。

薬師堂は新四国相馬霊場第67番札所で、布施弁天と併せて参拝する人も多い。

不動堂は中にお不動様の像が収められており、大日堂脇には文化4年(1807)の相馬霊場石柱があって、これらの古い小さなお堂にも布施の歴史が感じられる。

3.布施弁天(東海寺)の縁起

利根川に臨む独立した丘は、地元で「亀の甲山」と呼ばれ古くから信仰の対象とされてきたが、市内唯一の古墳時代中期(5世紀頃)の前方後円墳「弁天古墳」であり、石枕、臼玉、斧・ナイフなどの石製模造品、鉄剣などが出土している。

東海寺(布施弁天) 初詣

伝承では、大同2年(807)7月に当時は沼地だったこの場所に紅龍が現れて島をつくり、毎夜まぶしい光明を放ち止まなかったという。

ある夜付近の住民の夢枕に天女が現れ、「我は但馬の国朝来(あさご)郡筒江より来れり。当地は辺鄙(へんぴ)にして住民極貧なれば、これを済度せんためなり。怪しみ怖れることなく、島を訪ねて見よ」とのお告げがあった。

夢覚めた里人が光をたずね島に行くと洞穴があり、その中に三寸余の仏体を拝することができたので、大いに喜び祠を建ててこの尊体をお祀りした。

弘仁年間の初め弘法大師(空海)が巡錫(じゅんしゃく)の折、これを拝し確かに大師自らが但馬の国筒江で彫刻し奉った弁財天であったため非常に感動され、早速村人を集めてその不思議を告げ、さらに弁財天は諸厄難を払い福徳・財宝・智慧・愛敬の幸を与え衆生を救うというご利益を教えて、真心を以って信仰するよう説かれた。

大師はこの因縁からこの郷を布施と名付け小堂を建て紅龍山と称し、しばらくここに止宿されたので、村人たちは深く弁財天を信仰するに至った。

後日帰京した大師は嵯峨天皇にこのことを奏聞したところ、天皇はいたく感動され弘仁14年(823)3月に本堂、楼閣、経堂、鐘楼、鳥居などを奉建になるとともに器物一切及び荘園を寄進して勅願所に指定されたため、ここに大伽藍の壮観を現出することとなった。

初詣 手水舎 (ハート形の花)

その後、承平年間(931~936)に平将門の兵火で焼失するなど興廃が繰り返されたが、正徳・享保年間にわたり当地の領主本多豊前守が98家の大名から寄進を求めて逐次建造したものが現在の堂塔伽藍であり、江戸人士の尊信を集め大いに栄えて今日に至り、江の島・浅草と並ぶ「関東三弁天」と呼ばれている。

本堂内陣天井には寄進した諸大名の家紋が描かれており、外陣天井鏡板の龍は狩野探舟の作で、本堂、鐘楼、楼門は千葉県指定文化財となっている。

宝永2年(1705)に近くの古谷の地にあった真言宗豊山派東海寺と一体化して紅龍山布施弁天 東海寺(新四国相馬霊場第68番札所)となり、平成20年(2008)に開山1200年祭が盛大に挙行された。弁財天はもともとインドで尊崇された農業神、河川神であり、東海寺が寺院でありながら門前に鳥居があるのはこれを本尊とするためである。

布施弁天(東海寺)は松光院ともいう。

4. あけぼの山公園

布施弁天南側の「(あけぼの)山」は桜や梅の名所として参詣の人々の眼を楽しませてきたが、松尾芭蕉、小林一茶、宝井基角、志賀直哉ほかの俳人・文人たちも来遊して作品の中にその名を残し、それぞれの石碑が建てられている。

昭和の高度成長期には大手不動産会社が高級住宅地にする目的で買収に入ったが、地元民が折角の布施の景観が台無しになると千葉県知事に直訴したことにより、県から柏市へ2億円が無利子で貸し出されて不動産屋から買い戻され、その後柏市により「あけぼの山公園」として整備が進められてきた。

現在では、500本の桜が咲き競う「さくら山」のほか、梅林、15万株のチューリップ花壇とオランダ風車、池泉回遊式の日本庭園と茶室、水生植物園、農業資料館、市民農園、バーベキューガーデン、芝生広場、あけぼのグラウンドゴルフ場などがあり、公園の高台からは筑波山・日光連山や利根川の広大な遊水地の開拓田が一面に望めて景観に優れ、四季おりおりの花も咲いて一年中楽しめる市民の憩いの場所になっている。

5.一茶と布施 土谷津(つちやつ)の俳人雪月庵 嘯花(せつげつあん しょうか)と円性寺

あけぼの山公園には一茶の句碑があります。

「米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ」…一茶『株番』

一茶は度々布施の地を踏んでいると思われる。

流山や馬橋と布川や守谷を結ぶ線の一つの点として彼が良く通った場所でもあるはずです。

流山テキスト ボックス: 一茶の句碑

テキスト ボックス: 一茶の句碑の説明の秋元双樹、馬橋の大川立砂(りゅうさ)斗囿(とゆう)親子の家が一茶の根城(ねじろ)でした。そして、布川には肝胆相照らした仲の月船がおり、守谷には畏敬していた俳僧鶴老上人が西林寺というお寺の住職をしていました。特に守谷への往来には布施は大事な所だったでしょう。布施の土谷津には俳人雪月庵 嘯花(せつげつあん しょうか)(別名:ろうそく屋彦兵衛・中尾彦兵衛・中尾嘯花ともいう)がいました。

雪月庵嘯花は宝暦11年(1761)、下総国相馬郡布施村土屋坪(現我孫子市布施)の飯田勘平家次男として生まれ、同坪の二代目中尾平左衛門(酒造家/酒の銘柄「谷風」)の養子になり、後に分家し隠居して彦兵衛と名乗りました。小林一茶と交流があった俳人です。

一茶は円寺前の雪月嘯花方を訪問したことも多分あったでしょう。

円性寺境内には雪月庵嘯花、こと「ろうそく屋彦兵衛(中尾彦兵衛)」の句碑がある。

我孫子市史研究センター歴史部会 で、平成18年(2006)11月20日に発行した中尾嘯花句集『いほ里のちり』がある。柏市図書館布施分館にも保存されている。

テキスト ボックス: 円性寺
テキスト ボックス: 嘯花の庚申句碑
テキスト ボックス: 句集「いほりのちり」

6.布施河岸(七里ヶ渡)

布施村と利根川対岸の茨城県戸頭村を結ぶ七里ヶ渡

(江戸日本橋まで7里あるのでこう呼ばれた)は、古くから水戸街道を根戸で分かれて常陸の水海道、結城、下妻方面に通じる筑波街道の渡船場であった。徳川幕府は江戸防衛のため利根川に橋を掛けなかったので、下総と常陸を結ぶ脇往還の要所として諸大名の往来も多く、布施テキスト ボックス: 七里ヶ渡跡:鈴懸の大木の根元に
渡船悲劇事故の水神宮が祀ってある
村は宿場町として繁栄した。

享保年間(1716~35)以降の布施河岸は、下利根川・霞ケ浦などから江戸へ運ばれる奥州下野(しもつけ)・常陸産の米・野菜・紅花・酒・タバコ・鮮魚・塩物・薪炭などを陸揚げして荷駄に積み替える物流拠点になった。

鮮魚(ウナギ等)は途中、柏の高田「水切場」を通り、流山の諏訪神社を経由し、流山の野々下「水かい宿」の二カ所でウナギを水に浸し生気を取りもどさせて江戸川の矢河原(やっから)の渡しへと運ばれた。つまりウナギを1時間ごとに馬から下ろして、清水に浸しまたざるを水から引きあげて水を切って馬に積んだことから「水切場」という名がついたらしい。

今もこの道は諏訪道(すわみち)”として一部残っている。‟ウナギ道”とも呼ぶ。

また江戸からの布施弁天参詣の人も多く来て、宿場町・門前町として旅籠屋5軒をはじめ、茶屋、酒屋、荒物小間物屋、桶屋、菓子屋、炭焼商など多数の商人が集住する繁華な集落となっていた。

幕末には、天狗党が当地の裕福な商人や農民から軍資金を徴発したり、官軍に追われた旧幕府陸軍奉行大鳥圭介や忠義隊、激震隊、誠忠隊など三千の兵が逗留(とうりゅう)して金品の強奪が多発し、土方歳三(ひじかた としぞう)以下の新撰組も布施に泊まり七里ヶ渡から利根川を渡って会津へ向かったという歴史の各場面も繰り広げられた。

布施河岸は利根運河の開通(明治23年、1890)や鉄道の発達によってその役目を終え、現在は新しい県道と新大利根橋で対岸の茨城県と結ばれ車の通行が盛んである。

7.久寺家の宝蔵寺と鷲(わし)神社

テキスト ボックス: 鷲神社
テキスト ボックス: 宝蔵寺

観覚光音禅師(後述の〖注〗参照)は、久寺家の丘は香川県の屋島に似ていると言われ八十四番を宝蔵寺にうつしました。寺伝によると宝蔵寺は元和三年(1617)の創建であり、元は地蔵堂でした。

宝蔵寺は久寺家城跡の一画で城主は久寺家儀元といわれるが、詳しいことは不明です。

戦国時代には小金井城の高城氏(千葉家家臣)配下で我孫子城主、我孫子左衛門但馬守に属していたと言われている。鐘楼の隣に籠堂(こもり堂)その奥に大師堂がある。

籠堂ではかっては念仏講が営まれていました。取手市新取手にある久寺豊後丹後屋敷は、将門の重臣の住んだ屋敷で所在は不明。取手市新取手大山にあった大山城主久寺豊後とその弟丹後は、平将門の戦死を聞くや、急いで大山の砦(現在跡地は住居)を離れ久寺家に逃れた。この頃は久寺家という地名は無く、人の住まぬ荒れ山で、西方を除けば周囲は低湿地に囲まれ、容易には人が近づけぬ土地であったと思われる。こんな土地柄だから、将門を討った後の残党狩がきびしい中で、久寺兄弟は隠れることが出来たのでしょう。いつのまにか久寺さんの家があるところから久寺家という地名になったようである。弟の丹後は野武士となり往来の旅人に追剝(おいはぎ)をしたという。おそらく生活のための苦しまぎれの所業ではなかったか。でも丹後はすぐに悔い改め、農業を営んで生計を立てたという。久寺兄弟のうち、兄の子孫は大炊(おおい)氏を名乗り、住居の乾(けん)(北西)の地に鷲神社(‟おおとり神社”と呼ぶところが多いが、ここは‟わし神社”と呼ばれている)を祀って先祖を合祀した。現に今大炊家の近くに鷲神社が鎮座している。隣接する箱根マラソンで有名な中央学院大の鎮守にもなっている。大炊氏は代々名主を勤めて今日に至っている。弟丹後は我孫子の柴崎に住み、大井氏を名乗って今日に至っている。

我孫子警察署近くの我孫子市柴崎に「天満宮」があるが、ここは菅原道真を祀っているが、本当は裏では平将門を祀っている所のようである。

8.須賀本願寺の補足説明

2.の南龍寺の所で記載した須賀本願寺跡の場所について補足する。元あった場所は現在のあびバス終点の「布施回転広場」の所です。寺は230年続いた後、取手の青柳本願寺へ移転した。

船で移転時に釜を沼に落としたとの記録も残っている。

(最近土谷津の人から聞いた話では、鐘を落としたと伝わ

っているようだ)テキスト ボックス: 飯田氏所有の本願寺山
(あびバス終点の場所から撮影)


テキスト ボックス: 須賀本願寺跡

昔あった場所は前ページの左の写真のビニールハウス付近で、上人井戸があって、真夏でも水涸れしないで冬は氷が張ってスケートが出来たと、名主の本願寺山所有者の飯田貞雄氏から直接聞くことが出来ました。(平成27年(2015)2月24日に1人で、3月4日5人で飯田氏宅を再訪問して伺ったものです。)また、この時近くの自動車修理工場の方から自分達が小さい時に板碑を南龍寺に運ぶとお駄賃が貰えたと言っておられました。

9.富勢・八朔相撲(とみせ はっさくずもう)・・・(富勢地域ふるさと協議会より資料提供)

八朔とは、旧暦八月朔日の略で現在の九月一日にあたる。

布施村で相撲が行われたのは、八代将軍徳川吉宗の時代、享保9年(1724)布施弁天の境内で始められたという説がある。村の祭礼としての相撲を農繁期である八月朔日に行ったのにはそこに「時代」があったのです。

天正18年(1590)徳川家康が豊臣軍に加わり小田原を攻めた時、手柄があったとのことで、秀吉から関東を拝領して江戸に入場したのが旧歴の八月朔日でした。

これを俗に家康の江戸城お打入りと言いますが、開幕以来二百六十余年のながきにわたり続いた徳川家康繁栄のもとになりました。江戸時代を通してこの日は五節句に次ぐ祝日とされて来ました。つまり徳川家の祝日に村の祭礼を行い八月朔日を共に祝うことだったのです。

テキスト ボックス: 富勢・八朔相撲弁財天社地に近村から商人が集まり(いち)が立ち、村の老

人や子供達迄連れ立ってお参りをし、秋の実りを願い相撲を楽しんだようです。明治に入りますと弁財天に参詣する人が少なくなり、その振興策を兼ねて十両位の力士を招いて八朔相撲を行ったこともあったようです。

しかし、もともと村の人達のお祭りでもあり、自然と若手の手に移っていきました。

布施には、相撲田と言われる共有地があり、村の人達が輪番で作りその収穫した米を費用にして八朔相撲を行った。その後相撲の取り手もいなくなったりして、八朔相撲はしばらく後を断ってしまいました。しかし、その後富勢地域ふるさと協議会のご尽力もあり復活し、平成7年(1995)10月1日に復活第1回が開催され、その後第25回迄続いた。

それからは最近のコロナ禍の影響もあり、第26・27・28回は休止でしたが、令和5年(2023)10月7日(土)第29回が4年ぶりに開催された。

富勢小学校、富勢東小学校、富勢西小学校、富勢中学校の児童生徒がぶつかりあい観客を沸かせました。参加者は36名で学校対抗戦は行いませんでした。

10.新四国相馬霊場八十八ヶ所巡り  (詳細は省略、次ページの参考資料を見て下さい。)

新四国相馬霊場八十八ヶ所は、江戸時代中期に各地で創られた四国霊場の地方ミニ版「新四国霊場」の1つで、取手の長禅寺で修行した観覚光音禅師が宝暦10年(1760)~安永(1772~81)初期に、利根川を挟んだ相馬の地(下総国相馬郡:現在の取手市、我孫子市、柏市の一部)に開創したもの。

取手市:58ヶ所、我孫子市26ヶ+1ヶ所(89番外追加)、柏市4ヶ所 合計89ヶ所。

布施周辺には、我孫子市内1ヶ所、柏市内4ヶ所ある。

*84番札所 久寺家 宝蔵寺→85番札所 円性寺26番札所 南龍寺→67番札所 薬師堂→68番札所 東海寺(布施弁天) (松光院)

〖注〗

(1) 観覚光音禅師(かんかくこうおんぜんじ)とは新四国相馬霊場を開いた人で、江戸中期の人です。

光音禅師は信州佐久郡海尻(うみじり)村(今の長野県南佐久郡南牧村海尻)の旧家井出三左衛門の三男として、宝永8(1711) 卯年正月元日に生まれた。幼いころから聡明で、

しかも仁徳に富んでいたという。身の丈は6尺(180cm)ほどたくましく眼光炯々(がんこうけいけい)として、彼に会った人はいずれも心から畏敬の念を抱いたという。また、両耳は肩まで垂れ下がって大きかった。今、各札所の大師堂や光音堂に安置されている光音禅師像の両耳が非常に大きいのは、この特徴を表している。

光音、俗名は源六。農間に穀物商を営み、屋号は伊勢屋。宝暦10年(1760)、50歳で出家し、四国八十八ヶ所の霊場の砂を持ち帰って近在の寺院に埋め、相馬霊場を開基した。天明3年(1783)に数え73歳で亡くなった。

(2) 下総(しもうさ)国の相馬(そうま)郡とは

下総地方名利根川中流部茨城県取手市守谷市千葉県柏市・我孫子市周辺にあたる。相馬郡は、茨城県千葉県(下総国)にあった

明治11年(1878)の郡区町村編制法 施行当時の郡域は、現在の行政区画に当てはめると概ね以下の通りである。 ただし、古代・中世の相馬郡および相馬御厨(みくりゃ)の範囲とは必ずしも一致しない。

・茨城県:北相馬郡利根町、取手市、常総市、龍ヶ崎市、守谷市、つくばみらい市

・千葉県:柏市(次の2地域) ①根戸、宿連寺、布施、布施下、弁天下、布施新町

②大津川以東

:我孫子市

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<参考資料> 右のQRコードを読み取ると見れる。

(最初に広告が出たら閉じること)

  • 第68話「成嶋家の一族 柏の人名・地名の謎に迫るこれってナンダイ!?

市立柏研Q所(youtube.com)   https://www.youtube.com/watch?v=_FdT8EV_lzI&t=900s

  • 新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会・・・・・・・・・・・・・・・・・・

http://www.88souma.net

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この資料は、柏市図書館の‟柏の歴史の本“数冊と、『新四相馬霊場八十八ヶ所を巡る会』資料参照と、【編著者:我孫子市史研究センター『新四相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』平成25年(2013)1月20日第1刷発行・発行所 株式会社 つくばね舎】等々を参考にした。

以上

令和6年(2024年)3月25日

柏市布施新町 吉原 武夫